となりの部屋の春
木村修一は、古いアパートに住んでいた。
二階建て、築四十年。
駅から遠く、風呂は狭く、冬はすきま風が入る。
だが家賃が安かった。
それが何より重要だった。
修一は三十五歳で、町工場の事務をしている。
朝七時に起き、コンビニのおにぎりを食べ、自転車で出勤する。
特別な趣味もない。
休日は近所のスーパーへ行き、安くなった総菜を買って帰る。
そういう人生だった。
春の初め、アパートの隣室へ新しい住人が引っ越してきた。
若い女性だった。
小柄で、いつも白い帽子をかぶっている。
名前は、たしか朝倉と言った。
「よろしくお願いします」
彼女は丁寧に頭を下げ、小さな箱を差し出した。
「クッキーです」
「あ、どうも」
修一は慌てて受け取った。
久しぶりだった。
誰かから手作りのものをもらうなんて。
その夜、修一はクッキーを食べながら思った。
「いい人そうだな」
隣の部屋からは、ときどき妙な音が聞こえた。
ウィーン。
カチ、カチ。
ピピピ。
最初はパソコンか何かだと思っていた。
だがある夜、壁越しにこんな声が聞こえた。
「重力補正、マイナス二度……」
修一は箸を止めた。
「……何?」
しばらく静かになり、それからまた声がする。
「酸素濃度、正常」
修一はテレビを消した。
聞き間違いかもしれない。
だが次の日も、その次の日も、隣から妙な単語が聞こえてきた。
「軌道修正」
「大気圏」
「通信遅延」
修一は少し気になった。
とはいえ、他人の生活に首を突っ込む性格でもない。
そのまま数日が過ぎた。
ある土曜日の夕方、アパート全体が停電した。
突然、部屋の電気が消える。
「うわっ」
修一は立ち上がった。
外を見ると、ほかの部屋も真っ暗だ。
そのとき、隣室からドタンという音が聞こえた。
「大丈夫ですか!」
修一は思わずドアを叩いた。
少し間があって、扉が開く。
朝倉が困った顔で立っていた。
「すみません」
「いや、停電ですよね」
「たぶん、私のせいです」
「え?」
修一は部屋の中を見て、固まった。
六畳一間の部屋いっぱいに、意味不明な機械が並んでいた。
光るパネル。
浮いている球体。
壁に映る青い立体映像。
どう見ても、日本の家電ではない。
修一はしばらく黙った。
「……最近の若い人って、すごい趣味してるんですね」
朝倉は少し考えた。
「趣味ではないです」
「ですよね」
沈黙が流れる。
やがて朝倉が、小さくため息をついた。
「隠しても無理そうですね」
「まあ、はい」
「驚かないでください」
「努力します」
朝倉は真面目な顔で言った。
「私は地球人ではありません」
修一は頷いた。
「なるほど」
朝倉が驚いた。
「信じるんですか?」
「いや、よくわかんないですけど」
修一は部屋の機械を見回した。
「この状況で“ただの会社員です”って言われるより納得できます」
朝倉は少し安心した顔になった。
「ありがとうございます」
「それで、何をしてるんです?」
「観測です」
「観測」
「地球人の日常生活を調査しています」
修一は首をかしげた。
「もっと他に調べることないんですか」
「あります」
「ありますよね」
「ですが、上司から“普通の地球人を見ろ”と言われまして」
朝倉は修一を見た。
「なので、木村さんは非常に参考になります」
修一は少し傷ついた。
「普通ですか、俺」
「はい。かなり」
その日以来、ときどき二人は話すようになった。
仕事帰りにコンビニで会ったり、アパートの廊下で立ち話をしたり。
朝倉は変わった人だった。
スーパーの半額シールを見ると、真剣に感動する。
「これは合理的です」
「そう?」
「文明として成熟しています」
また、春になると近所の公園で桜を見上げ、しばらく動かなくなった。
「どうしました?」
「この星の植物は、なぜ数日で散るんですか」
「え?」
「効率が悪いです」
修一は笑った。
「でも、だから皆わざわざ見に来るんですよ」
朝倉は少し考えた。
「非効率だから価値がある……?」
「たぶん」
彼女は黙って桜を見上げていた。
風が吹く。
花びらがゆっくり舞った。
ある夜、修一が残業を終えて帰宅すると、朝倉がアパートの前に座っていた。
白い帽子を膝に置き、ぼんやり空を見ている。
「どうしたんです?」
「帰還命令が来ました」
修一は少し驚いた。
「帰るんですか」
「はい。明日」
春の夜風が静かに吹いていた。
遠くで電車の音が聞こえる。
修一はしばらく黙っていた。
別に長い付き合いではない。
だが、なんとなく寂しかった。
「地球、どうでした?」
朝倉は少し笑った。
「変な星でした」
「そうでしょうね」
「皆、疲れているのに、コンビニで新作スイーツを買うと少し元気になります」
「なりますね」
「効率の悪い花を見て喜びます」
「はい」
「意味もなく、誰かと一緒にラーメンを食べたりします」
修一は笑った。
「それ、意味ありますよ」
朝倉は夜空を見上げた。
「私たちの星には、そういう文化がありません」
「へえ」
「全部、効率優先なので」
しばらく沈黙が流れる。
やがて朝倉が、小さく言った。
「だから少し、羨ましかったです」
修一は返事に困った。
彼にとって、自分の生活は退屈なものだったからだ。
朝起きて、働いて、スーパーへ行って、テレビを見て寝る。
そんな毎日。
だが宇宙のどこかには、それを羨ましいと思う人もいるらしい。
「木村さん」
「はい?」
「最後に質問があります」
「なんでしょう」
「どうして地球人は、春になると少しだけ優しくなるんですか」
修一は少し考えた。
「冬が終わるからじゃないですか」
「それだけ?」
「たぶん、“また始まる”って思うんですよ」
朝倉は静かに頷いた。
翌朝、彼女の部屋は空になっていた。
機械も、青い光も、全部消えている。
ただ机の上に、小さな箱だけが残っていた。
中にはクッキーが入っていた。
そして紙切れが一枚。
『観測報告』
『地球人は非効率だが、春になると少しだけ良い』
修一は吹き出した。
窓の外では、桜が風に揺れていた。
古いアパートの廊下へ、春の匂いが流れ込んでくる。
修一はクッキーを一枚食べた。
少し甘かった。